与太郎氏「リリーの純心」を読んで
最近、このような小説を読了いたした次第です。
僕はアイドルマスターという作品に心底入れ込んでおりまして、時折こういった小説を読ませていただくことがあるのですが、こちらの作品には感動した。
僭越ながら、感想を述べていきたいと思います(ネタばれには頑張って配慮するよ!)。
今のうちに言っておくと、アイドルマスターを一切知らなくてもおそらくこの小説は楽しめるのではないかと、そんなことを思っています。
三人の少女たち
この作品は、とある小学校が舞台。ここでは三人の少女が登場します。引っ込み思案な諷子(ふうこ)、クラスの女帝としての地位を築く優、そしてアイドル・桃子です。三人の女の子たちがぶつかり合い、物語を紡ぎだしていきます。
この三人のパワーバランスというのがなかなか絶妙でした。桃子と優は犬猿の仲で、優は桃子ととある理由から取り入ろうとします。しかし生まれた時から芸能界にいる桃子はそんな思いを察知してしまい、冷めた視線を送るばかり。優には桃子のその態度がお高く留まっているように見えて気に食わないわけですね。
桃子にとっての居場所は、765プロダクションという芸能事務所の仲間たち。だからこそ学校と事務所という二つの場所を比べてしまうのは必然でした。そんな中花壇で出会ったのが諷子です。
諷子と桃子、二人は心を通わせ始めます。しかしそれを優は快く思わなかった。諷子の弱みを握った優は、桃子にそれを話してしまい…。
小学生の女の子たちの世界というのはどうあっても狭いものです。その中で大人の世界に生き、大人びた価値観を持つようになってしまった桃子が入っていくのはなかなかに難しい。今回の小説で感じたことの一つは、このような「小学生の世界で起こっていること」が生々しい息遣いで描かれていることでした。
「友達になろう」
作中、とあるところに出てくるセリフです。前後関係から私は見事に涙腺をKOされました。深く書くことは当然ながらできない。でも可能な限り、ここで強く考えさせられてしまったことを書き綴りたいと思います。
まず、この小説では「人間関係」について、このような考え方を示しています。
「人間関係というのはもしかしたら、一方通行の考えからしか生まれないのかもしれない――」
それに加える形で、「友人」についての考えも示されています。
「友達に証明が必要になったら、もうそれは友達とは呼べない」
人間関係で自然に生まれた一方通行の考えが、友達という関係の第一歩なのだ。そうとあるキャラは言っておりました。これには思わずため息をつかされてしまいました。忘れていた、そう、そうだよな。こんなもんだ。とうなずいていたもの。
友人関係。お互いに友達だ友達じゃないと思いながら接することはありますか? ある人も、ない人も、きっと両方いらっしゃるのかと思います。
ここで言う「友達の証明」とは、「ともだちなら○○するよね」という一般論に支えられたことなのだろうと考えました。そして優は表面上の友達をたくさん作り、「群れ」を作った。でも、証明しないと友達と呼べない友達は果たして本当の友達と言えるのか。
では、「本当の友達とはいったい、どういった存在なのか」。今作品の最大のテーマは、ここにあります。お読みになってくださった方でこちらをご覧いただいている方々は首が取れる勢いできっとうなずいてくれてるはず。
本当の友達とは
私はこの小説を読んで、友達という観点を強く揺さぶられてしまいました。正直に言うと僕は引っ込み思案で、みんなにいい顔をついついしてしまうのだけど、本当は自分の意見を言いたくて、でも怖くて言えなくて…。まさに、「諷子」のような性格をしています。だからこそ彼女に感情移入して読むことができたし、感情移入で来たからこそ優と桃子の二人のキャラクターにも迫っていくことが出来たのかな…と感じています。自分自身が持つ友達の考え方が根本からゆさぶられて、まさに目から鱗、となっているのです。
では最後に、「本当の友達とはいったい、どういった存在なのか」という作品のテーマに、作品を通じて出した自分なりの回答を添えて締めたいと思います。また最後になってしまいましたが、このような桃子の素晴らしい小説をありがとうございました。
Q.本当の友達とはいったい、どういった存在なのか
A.気楽でいられる関係